都内某所

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だ。
集結したのはとある市民の勉強会。
会場のビルの通りに面した張り紙がインパクトあり立ち寄る。
始めての者として参加した。
そこは公民館である。そしてこの題材、刺激を感じ恐る恐る突撃した。
初回なのはどうやら自分だけだった。
20人前後の会員(?)のうち8割は高齢者。
飛び出す意見のリベラルさがすごく、
圧倒され勉強になりすぎた。
ここでは固有名詞を使わない。
検索されないためだ。
このような会があることに非常に驚き、
喜んでいる。
新しい地域の一面を垣間見た。
企画に善を感じた。
そしてこの核心的な題材を扱う企画者
に興味がある。
次回の講義は
カフカが愛読した本
についてだそうだ。
興味深い。

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講義の話は、多分まとめるとこうだ。
この文学作品は、現代人的な主人公である語り手が、近代へ切り込んだ作品だ。
語り手であるアウトサイダーな主人公は、思弁的である。
思弁的であるキャラクターは現代的である。
がゆえに舞台である近代からの過渡期である時代背景の中で
社会から浮く構造だ。
考えることに束縛されるという現代的な人間像、
それを扱うことが平成の作家としてのリアリティーがあるようだ。
物語の描写は現実の現象を追った写実的な確かさは軽く、
重心が置かれているのは、心情だとか思いこみ、それとノリとリズムだ。
精神が現実と乖離し、犯罪者になる、その過程。個人的テロ。
「ツヤマ30人殺し」「コロンバイン30人殺し」「バージニア工科大33人殺し」
があるように、歴史においては普遍的なテーマ、
史実では河内は10人殺しというが本当は11人殺した。
10人斬り、だからこそ広く広まった。ごろの良さ。
音頭は現在のワイドショー的なもの、
演者によって、事件やニュースを口承伝承するメディアだった。
文盲の人々が多い時代。形式上、演者が主人公になり、事実を物語化して
うたう。
歌舞伎の心中物などにみられる、構造と近い。
この音頭は事件から1ヶ月で出来たそうだ。速い。
そのような口承の文学をさらに文学作品に変換するところがユニークな点で、評価されるべき。
夜啼きの森」はツヤマの事件を扱った小説。コロンバインは映画化されている。

作品はフィクションであり史実とはすれ違う。
関西弁文学とされることがあるが、実際には関西弁に似た意図的に作られた言語のようだ。
自動筆記的ではなく、何度も修正され直された文体だ。
作者の特徴は音に対する確かな感性で、キャラクターの命名にも観れる。
同じ作者の作品に多く登場する主人公像に共通する人格像、
神経質で繊細。
状況を逆算しシュミレーションしトラブルを回避しようとするが、結果状況に呑まれる。錯誤が多い。
主人公は14歳で神の化身らしい兄弟の兄のほうを殺す、
神殺しの結果、オブセッション、以後、強迫観念にかられる
善行を貯金することで、救われようとする。
忠義や正義に生きようとした結果、悲劇に進む。
舞台は主人公の思弁的言語を理解する者のいない地方の村。

主人公にとって内縁の妻は絶対的な存在として表れる。
意見や願望を出さない美しい女性として「神より使わされたのではないか」と信じるが
最終的に「ただの淫乱」である悟りと一刀両断、殺める。
「男のロマン」なのか女性に幻想をいだく現象はリアリティーがあるようにおもう。
錯誤

ズレた行動、不思議なズレのある人物

タイトルは近代的なタームの一つを暗示している?
後半、舎弟に思弁やそれを吐露するという行為、
通してコミュニケーションをはかろうとする。

倫理x論理のジレンマ(?)




作品は長編である。
個人的なこの講義の意味として
現実と乖離した思弁の世界にパースペクティヴを持たせることを実現させる
仕組みが面白いとおもった。
長文であること
リズム
ノリ
神殺し
強迫観念
そこで生まれる、主人公の凶行の
理由、正当性、リアリティー。
やはりそれは現代的というか同時代的だと感じる。
美術でいえばコンセプト自体を作品にするものが少なくない現代。
そこでコンセプトという概念が物質世界から独立、独り歩きしているのではないか。
対極にあるのは明治大正の日本画に見られる、シチュエーションをテーマにしたものだ。
その時代においてコンセプト的である、日本画という形式においても、
デッサンやら、構図、写実性といった造形的な現実の現象を追うところに重きが置かれる。
それがゆえに、対比してそこでの鉄線描などの線描や、省略といった技法の幻想的な効果が大きくなる。

昭和の画家、平山郁夫の作品は、造形的なリアリティーが欠如していると指摘する美大教授いがいる。
現実からより乖離しはじめたところだろうか。

欧米ではヲーホールとかクーンズらが思弁的に作品を作っている。
ドライな、普遍的な倫理と論理の問題になってくる。
そこにはまだ大きくメディアの構造を扱う姿勢がある。

日本には同様の流れは来ていないような気がする。

二次的、三次的な影響に思える。

それは内省的だとか、詩的だとか、より個人的に乖離し凧の糸が切れた感じもしないでもない。

氾濫するへたうまになり、シュール(レアリスムではない)になり。
それも感傷や受動的な形であらわれ、欧米からみたらマゾに見えるのかもしれず、
イラつく美術ジャーナリストもいそうだ。

レッテル的な概念としての自我という現代的な稀有な特産物を
獲得する個人単位の日本人の過程として。

そのつながりでこの文学作品の、支離滅裂さ、パンクさ
につながっていると考えると面白い。

パンクは、支離滅裂な感じと捉えることもできるが、脱構築的であるとも思える。

切り込む形で構築された手あかのついたメディアを分解し、

江戸時代の俳諧のように、身体言語的に意図的に変化、結合させる。

だから、この作品は、近代以前、現代ときて、いわゆるポスト現代の感性をにらんでいる部分がある気もする。揺り返し的に。

それで物理現象追わないが故の、長文化。
成り行きを出来ごととして説明すればほぼ一言で済む。
物理的デティールを踏まえればより長くなるが思弁の流れを通して主人公の脳裏を表現し
なおかつ現象に頼らない脳裏の表現に現実味や説得力を持たせるのであれば
肉体的に膨大な脳内現象の万里の長城みたいな連続しかない。

アニメが膨大なセル画の集積のように。
つまり、動画というか映像的な感覚を連想した。
まったくのフィクションである静止画も連続して動かせばアニメとなり
命がともるらしい。
そういった映像メディアの発達と浸透がもっと進展した乖離の背景にあるとは思う。
あり得ない状況が流れる映像、近代人がみたら全員サイコになりそうだ。
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by wasurerare | 2010-01-14 21:51 | Ikoi_Girl__憩娘
Tomoaki Shibata, Artist from Japan is owner of this home page since 2006.Tomoaki runs own 2 home page. Another is main act. This act: news&blog Another:main.. http://wasurerare.jimdo.com/
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