嘘タモガミ論文

瀬戸内海の牟礼人(?)というところにお邪魔したことがある。陶芸作家のアトリエがあって、煉瓦の工場がある。いつもそこにはさざ波が押し寄せる。それを似た環境だと想像するとノイズのない良い環境だと思う。
単純に移動して起こった時間経過を表現に投影することになる。
知らない土地での理想を追った制作。
しかし2か月しかない。出来ることしかできないが、理想に掲げたものが本当に素晴らしいかわからない、行動によって生まれた成果の前では。

中略
きっとそれは食と言うカテゴリーをはみ出した大きな問題を抱えている記憶のはずだ。

(1)親の前でフルーチェを吐く、(2)甘い納豆、(3)自作インディアンカレー、(4)タッパー巨大コーヒーゼリー、わりかし個人的に恥ずかしいい記憶が思い当たる。
1)フルーチェは小学生の時の記憶だが、楽しみにしていたフルーチェを母親に適当な分量で作られ、抗議の為、夕食の席で「糞まずい、ババア」と言って、一度口に入れたものをまだとり分けられていないフルーチェの入ったボールに吐いた。2)甘い納豆は、アメリカに滞在した直後、アメリカ料理の甘ったるい味付けにヒントを得て日本の伝統食材である納豆に大量の砂糖を混ぜてみたら凄い粘りになって面白く、おやつとして味も悪くなかったという体験。3)自作インディアンカレーはインディアンカレーという看板メニューのある劣悪きまわりない労働環境の洋食屋でいらいらしながらアルバイトしていた時、実家で出てくる食事が非常に手抜きでしかもおいしくなく、いらいらしながら職場で覚えたものを家庭で出来るレシピに変えて一人台所で作って食べた思い出、4)大学のサークルの花見で自作の一品それぞれを持ち寄るという機会に持っていったのはゼリー。それは実家では当たり前のデザートだった。他の部員のレシピ本などを駆使した華やかな料理の前では生温かいゲテモノとなった。

一度口に入れたものを出したり、一見、食べ物で遊んでいるように見えたり、私が思い出しやすい思い出というのは、個人的な内省的な物語や論理の中では大真面目で筋書きがあるのだがなにか足りないのと投げやりさのためその風景に唐突でありトラブルを起こすといった出来事だったことが多い。個人的テロの構造に近いのかもしれない。同じ歳の青年が大学の恩師を大学構内のトイレでめった刺しにしたのは記憶に新しい個人的テロだ。自我の存在がそこにはある。いうなれば個人的なこだわりである。その対象との関係の形である、個人的こだわり、しかしそれは執着であるがloveと言えるかもしれないのか、それは判らない。ただ正しいと言えるのは自分も含めスケールの小さい奴が多いということだ。結局は自分を含めた情けない状況への当てつけでしかない。しかしながら状況を変えることは状況を変えることで能動的になし得るのだ。その点で舞台を人殺しでなく食にするところを肯定する。料理も創ることだ。自ら包丁を握るからには可能性にトライしたい。むしろ可能性を摘もうとする行為や構造に対して私はヒステリーを起こす傾向がある。

個人ではなく団体の主張するところでいえばシ―シェパードが捕鯨船を攻撃するが、捕鯨の根拠は必ずしも食料としてのクジラへの愛ではない。ときに捕鯨の現場は職場であるからだ。最近テレビで見た報道の、人々がクロマグロ禁輸否決に胸をなでおろした、というのはなんとなく人々の食文化への愛を感じることが出来る、しかし人々といってもそれが誰だかわからない。きっと胸をなでおろした人が多くいたということだろう。

言いたいのは消費者もしくは端末としての人間である個人個人にしか愛という感情は存在しないということだ。つまり愛ないし執着心という感情は個人個人の精神的な領域の出来事なのである。

厳密にいうと生活に困るからほっとするというのはマグロへの愛ではない気がする。
タレントのさかなクンみたいな態度にサカナへの愛を見つけたい。
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by wasurerare | 2010-03-20 00:52 | Ikoi_Girl__憩娘
Tomoaki Shibata, Artist from Japan is owner of this home page since 2006.Tomoaki runs own 2 home page. Another is main act. This act: news&blog Another:main.. http://wasurerare.jimdo.com/
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