2010年 06月 05日
六本木クロッシング来場。-陰性院生
美術館行った。上野の等伯以来。
結論を言うと、クロっシングは、
チンポムと森村さん、が引っかかるものとしてあった。
ほとんど全部の出品作品やアーティストは見応えがあった。
かっこよくて、みんな尊敬できる感じだ。
しかしながら、「芸術は可能か?」というテーマ、
が指し示すように、 芸術の線引きを示す意味で、伸びた、雑多な
内容だった。芸術と呼べないものもそこにあってオーケーという
ふうに受け取った。
ぼんやりとした、現代社会人にとって芸術らしき市民権が確立してあるもの
がそこにその輪郭を保ち出現していることが
素晴らしく、
実現する能力の強さが非常に尊いもの、好ましいものに感じられた。
アートの万博や!
今、思うにこの「芸術は可能か?」という言葉は
僕には「(そいつに)芸術は可能か?」という意味合い
で捉えられた。
上記2アーティストのみが、僕にとって
アートだった。いや、僕がアートと呼びたいものだった。
残念ながら、
他は、「不可能」さを感じた。
無理だ、とは言わない。
この時点での彼らのスタンスでは
不可能だ。
と感じた。
なんでか、という結論は出すのを
ためらってしまう。
こけら落とし(?)のクサマトリックス以来
の森的、命題。
エンタメx芸術の両立
の難しさ
で、戦うオペレーションで
その湾曲した患部だけが
膿み、肥大した、
そういう印象がある。
クロッシングはグループ展だ。
上記2アーティストなら、森での個展を見てみたい。
そういった差異が
僕にとっての
この感想の、対象者の可能さを測る、
一つの根拠として
打ち建てることができる。
批評でも批判でもない。
自分のための文章として。
つまるところ
作家活動の責任を
転嫁しまっくちゃあ、そんな人間を
僕はそれを芸術と呼びたくない。
森に大金貰ってつぶれたのだろうか。
いや、転嫁しきれないのが見えて
粋に感じられえないのだろうか。
何にしても。
芸術は
労働=市民権(対価)
という構図から
はみ出ないと
立ち上がらない。
そういえば
何となく伝わるだろうか。
だから
作家活動を、労働だといって
いる人間を正直信用できない。
仕事とも呼びたくない。
コミュニケーション?
多分、だろう。
いや、やっぱりみんな凄いです。
ごめんなさい。
by wasurerare
| 2010-06-05 22:47
| Ikoi_Girl__憩娘