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泥のような壁画

どうせ正しいことがかけないのででたらめな

昨日、あめでしたが新潟市出身の彫刻家さんと母校のシンポジウムに行きました。
その後、二人でやきとん屋で飲み、国分寺で二軒回ってお茶して帰りました。
やきとん屋は10年ぶりでしたがなぜか店主と嫁に敵意ある態度をとられました。
なんか嫌われることしたか?店内は女性の美大生ばかりでした。青春がフラッシュバックした。

シンポジウムは日本画についての話で、
しかも気づいたらなんとなく王道的な登壇者と内容。
いままで当事者なのにすっかり怠けていた分野なのでとても勉強になりました。というか焦った。
ただ話に途中からついていけなくて自分の集中力のなさを痛感しました。なさけない。ごめんなさい。

途中から話そっちのけで話の筋とはまったく飛躍したところで「バイリンガルへの希望」が今日的なテーマになりつつあると空論を感じはじめました。
言語圏を越境すること、これが実は現代の日本人美術家にとっては絶対的な希望に見える。
先日鑑賞した邦画のローマの温泉映画にどこか清々しさを感じたのですが、気のせいでなければ多分この映画は何かの本質か根拠があるのだと思いました。あるいは、逃げたいけど逃げない日本人みたいなやつかあ。

日本人は日本人でしかない、外人にはなれない。
しかし中途半端なバイリンガルという不可解な存在にはなれる。
この映画はまさしくキメラだった。だからどこか気持ち悪い。
しかしそのキモさは日本人特有のキモさだろうと思う。
この映画はキメラ化に成功したのだから、大成果だと思う。
名画はきもいものだ
ただ、バイリンガルという障壁としての存在がインパクトを生む面もあるだろうか
うなぎいぬだ

例えば連想するのは万葉集のあめのかぐやま
形而上の呪術と現実を混合する、そしてその認識を自然とするあるいは強要する
信仰が一神教ではないがエンペラーはいる

あるけどない、ないけどある、という
原発に水をいれてもたまらないのが、穴が開いていると結論するより不思議だという結論でもなんでもない結論を出し判断を遅らせる
これが幽玄性の本質であるならば
それはそもそもヴィジュアルな山水画がバイリンガルではないか
日本的なる美意識はそもそもバイリンガルか多言語的な意識に潜在的なものがあるのではないか。

それが何をもたらすのかわからない、ただバイリンガルかそれに準じる何者か
になって初めて表現されるべき内容としての表現者としての立ち位置やリアリティーができる。
つまり見えない境界を見れるかかどうかだ
それを見させるのがバイリンガルであり富士山だ。

相対的に内部でありつつ同時に外部の存在になることは美術家の前提かもしれない。
つまりき○がいが最強かもしれない。いや、本物はやっぱりアウトだ。
バンダリーや障壁ではなく泥のような意識を発見する存在がバイリンガルなのだろう

結論にすべきは一方で希望の逆である絶望とはなにか、バイリンガルが希望ならば絶望とは何かの答えだ。
多分それはイメージでいえば土地に縛られることだ。
極論を言えば自分の出生地を決めることがゴールなのだろう。




by wasurerare | 2014-06-07 01:07 | Ikoi_Girl__憩娘
Tomoaki Shibata, Artist from Japan is owner of this home page since 2006.Tomoaki runs own 2 home page. Another is main act. This act: news&blog Another:main.. http://wasurerare.jimdo.com/

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